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2012年04月13日:Posted by LOOCHOO(アートとデザイン)

アートとデザイン ♯5 真喜屋力

真喜屋力
映画監督



アートとデザイン ♯5 真喜屋力
パイナップルツアーズ/1992年製作
真喜屋監督作品は第1話「麗子おばさん」




アーティストは感動を無から生み出してるわけじゃない。

クリエイターとも言うけど、万物を生み出した創造主とはわけが違う。にんげんだもの...、限界はあるさ。ついでに言うとアーティストは常に観客(鑑賞者)に負け続け、絶対に勝つことはできない。いや実は勝っちゃだめなんだと僕は思う。

これまで様々な映画に様々なスタンスで関わる中で、感動したと言ってくれる観客に大勢出会い、言葉を交わしてきた。一般の観客の感想は、いつの間にか映画から離れて、その観客自身の人生とかぶって行くことが多い。「私も昔ねぇ〜...」「あの気持ちわかるわぁ〜」って具合に。もちろん、映画と同じような体験はそうそうないとしても、自らの体験と重ね、結びつけることで湧き上がるのはまちがいない。

例えば演歌。若いころバカにしていたあの泥臭さい世界。社会人になり、恋を重ね、結婚し、子供を持つなど、経験を増やしていくと、一人,二人とカラオケで唄い始める奴が増えて行く。気がつけば演歌はカラオケの山場。「ああ、俺の歌を取りやがった」と嫉妬の炎を燃やした記憶もあるだろう。創作と言う行為のジャッジメントは、けっきょく観客に主導権が握られているってことなのだ。

だから僕は、桜坂劇場で映画評論講座を開いたときに、受講生に対しては「映画のことは、3〜5行でまとめなさい。大事なのは映画を観て思い出した自分の体験を書くこと」と言い続けた。通称《赤裸々映画評論》!だから僕らの映画評論は、映画とは違う物語が姿を現し、時として映画そのものよりもおもしろかったりする。でもそれは映画が導き出した結果である。受講生には「映画の中のどこに、その思い出を引きだすフックがあったのか?」と投げ掛け、映画の内在する力、アーティストの意図を意識させるようにした。これが正しい映画評論かどうかは別として、映画の作り手とガチで闘う評論がおもしろく,生産的な行為に思えた。

きっとアーティストの仕事とは、その表現によって観客に揺さぶりをかけ、彼らの思い出や体験を浮かび上がらせて撹拌することなのだと思う。うまく撹拌できれば、観客の体験値はメレンゲのようにモコモコモコッて膨らんでいく。アーティストの創作を超えて大きく大きく膨らんでいく。それは時として涙を流すほど良い話や、深く考えさせられる何かであったりするのだ。アーティストはそのメレンゲを食べて、フィードバックすることで拡大再生産していくんじゃないだろうか。映画の世界には、たまに自分の演出で観客を意図どおり操っていると思っている人がいるけど、それはメレンゲを作っても食わない奴だと思う。消費してそのうち栄養失調で倒れるから注意。

つまり《アートはメレンゲ。デザインとはメレンゲを作る段どり》ってことだ。

だとすれば作品そのものは、実はアートではないかも知れない。自然の造形物を、天然のアートということがあるが、それだって人が感動して初めてアートと呼ばれるのである。自然はなんの意図もてらいもなく、造形を日々行っているだけなのだ。観客と出会うその日を待ちながら...。いや、それは嘘だな。待ってもいないんだよ、自然って奴は。大きいよね。

でも人の人生は短い。だから沖縄のアーティストたちが、作品と共に旅をするLOOCHOO展はすごく楽しみです。攻めてください。新しい観客に出会って掻き混ぜてください。そしてロンドン中をメレンゲの雲で覆い尽くしてくれることを期待してます。だってメレンゲって食べなくても、見てるだけでも楽しいからね。見てるだけでも心動かされるのが、これまたアートなんだろうね。






映画のアナログ版プロジェクト
LOOCHOOメンバーの伊是名淳も出展。名嘉太一はPV音楽を担当。



★★★★★

真喜屋力まきやつとむ
1966年沖縄県那覇市生まれ。元桜坂劇場ディレクター。
映画のアナログ盤プロジェクトを推進中。
監督としてはRBCの『オキナワノコワイハナシ』(2012年8月放送)が最新作の予定。

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Posted by LOOCHOO(アートとデザイン) at 08:25│Comments(0)アートとデザイン
 
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